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[旅の日記]

タリン Tallinn  

 フィンランドのヘルシンキに滞在していますが、今日は少し羽を伸ばしましょう。
エストニアのタリンを訪れてみます。
まるで隣町に行くように、シェンゲン協定の加盟国間の移動はいとも簡単にできるのです。

 ホテルを5時過ぎに出て、トラムに乗ってフェリーターミナルまで向かいます。
さすがに朝一番の電車とだけあって、人はまばらです。
7:30にならないと夜が明けない国ですから、暗黒の闇の中での行動です。
トラムの終点駅であるターミナル2についたのは、まだ6時前です。
ところがこの時間ではフェリーのりばが、まだ空いていません。
寒い中、6:00の開門まで震えながら待つのでした。

 6:00の時報とともにフェリーのりばの扉が開きました。
船の便はインターネットで予約しており料金もカード決済していましたので、あとは自動発券機でチェックインするだけです。
ところが発券機は予約番号以外に、設定したはずのないパスワードを聞いてくるのです。
思い当たるものを2回入れたのですが、いずれも拒否されてしまいます。
半年前に日本の税の確定申告でパスワードを3回間違え無効になったという苦い経験を思い出し、3回目の入力に踏み切ることができませんでした。
しかたなく窓口が開くのを待ちます。
30分ほどして、ようやく窓口のシャッターが開きました。
予約票の印字したものを出すと、何のことなくチケットの交換が終わったのでした。

 フェリーの出航は7:30、ちょうど日の出と同じ時刻です。
水平線に朝日が輝きだしました。
ここから2時間の船旅、まずは船内を探索します。
7階から乗船したのですが、その階と上の階にカフェテリアがあります。
開放的なテーブル席が広がります。
船の半分は個室の客室ですが、今回は指定席を取っていませんのでカフェテリアやレストラン、それにカジノ室の前に置いてあるソファで時間を潰します。
2時間があっという間に過ぎ、いよいよエストニアに入国です。

 フェリーは静かに接岸しました。
タラップを渡ると、市内を走る道路の歩道に直接出たのです。
入国審査があるわけでもなく、ましてやパスポートにはんこを押してもらうわけでもなく、肩透かしを食らったようです。
それではここからタリンの旧市街へ歩いて行きましょう。

 最初に目指したのは、城壁で囲まれたタリンに入るための門です。
レンガを積んで造られた煙突を目印に、歩いて行きます。
道路脇には緑地が広がり、リンゴの木が植えられています。
小ぶりのリンゴが成っているのですが、誰も採らずに道端にたくさんの実が落ちています。
赤く色付き綺麗なものです。

 途中の道が大規模な都市開発で道が寸断されていたために、少し迷いながら「エストニア海洋博物館 Eesti Meremuuseum」にやってきました。
ここにあるのが「スール・ランナ門 Suur Rannavärav」です。
「ふとっちょマルガリータ Paks Margareeta」と言った方が、判りやすいかもしれません。
町への出入り口を守るために1529年に造られた砲塔です。
その後は兵舎や監獄として利用されてきました。
この建物が監獄であった時、マルガリータというふとっちょのおかみさんがいて囚人たちから慕われていたため、このような名前が付きました。

 ここから先が城壁で貌まれたタリンの街です。
「聖オレフ教会 Oleviste kogudus」は、フェリーから眺めたタリンの景色でも確認できた高い塔をもつ教会です。
船舶の道標としても使われていたことを聞いて、うなづけます。
最初に教会が建てられたのは1267年のことで、タリンの最盛期である16世紀には塔の高さが159mと世界で最も高い建造物でした。
17世紀前半に世界一の差を受け渡したあとも、タリンのシンボルとして残っています。
ただ訪れた時は修復工事の真っ最中、塔の周りはカバーで覆われてっぺんだけが見えていました。

 そこから西へ進むと、城壁が見渡せるところがあります。
城壁の外は「塔の広場 Tornide Väljak」と呼ばれる緑豊かな公園です。
ここでは城壁を外側から眺めることができます。
城壁には等間隔に塔が建っており、そこから敵の侵入を監視しています。
そして高くそびえ立つ石の城壁が、敵の行くしっかりと手を阻んでいます。

 ここで再び城壁内に入り、街の中心に向かって歩きます。
「自然史博物館 Loodusmuuseum」では、入り口上部にリアルに描かれたキツネが出迎えてくれます。
この辺りの「ライ通り Lai」はメイン通りから1筋ずれており、人通りも少なくゆっくりと街を散策できます。
「三人兄弟 Kolm Venda」というところがあると聞いて行ってみると、3つの似た建物が並んでいるからだと判ります。
これは説明を受けなければ気付かないものです。
ここに来るまでも「三人姉妹 Kolm õde」という建物を通り過ぎてきたようですが、まったく気付いていませんでした。

 と、道路に石碑が埋め込まれています。
「HAMLET」の文字だけは判りましたので、その前に建つ建物を見上げてみると黄色の大きな造りをしています。
どうやらここは「タリン市立劇場 Tallinna Linnateater」のようです。
石碑には題目、初演日、公園日数が刻まれています。

 その向かいには「健康博物館 Eesti Tervishoiu Muuseum」があります。
建物の前に内臓を開いた人体模型があるので、その異様さですぐ気付きます。
石作りの家屋が並ぶ中、独特の雰囲気を持っています。

 ここでメイン通りである「ピック通り Pikk」に戻りましょう。
角にある建物が「エストニア歴史博物館 Eesti Ajaloomuuseumi」です。
大ギルド会館を利用した博物館で、それ自身がタリンの歴史的遺物なのです。
エストニアの戦争に満ちた歴史、そこで住む住民の生活を描いています。
エストニアの歴代の通貨などの展示がある中で、金色に輝く指輪が印象的です。

 「聖霊教会 Püha Vaimu kogudus」は、街の病人や老人を対象とし隣にある聖霊救貧院の一部として14世紀の初めに創立されました。
入口の上にはタリンで最も古い公共の時計があり、今も時を刻んでいます。
中に入ると、芸術家バーント・ノトケによる木造彫刻が施された祭壇が有名です。
それまでのドイツ語による説教であったものを、宗教改革の後に初めてエストニア語で行ったのもこの教会です。
宗教改革の破壊を免れた貴重な文書が、この教会には保管されています。

 さていよいよ「ラエコヤ広場 Raekoja Plats」にやってきました。
目の前に「市庁舎 Tallinna raekoda」も見えます。
広場の周りにはたくさんのレストランが席を並べ、店が出しています。
いくら何でも外は寒いので、室内で暖をとれる場所を探します。

 通りを数軒入ったところに良さそうな店を見付けましたので、12:00の開店まで少し待ちます。
ここで昼にしましょう。
注文したのはエストニアの郷土料理である「血のソーセージ Verivorst」です。
ネットでは色々な評価があるものの、実際に食べて試してみたかったのです。
2本のソーセージとハム、それにジャガイモとパンがつきます。
ソーセージは大きく肉がいっぱい詰まっています。
ナイフを入れるとミンチ肉が崩れ、それにジャムを絡めて食べます。
独特の臭みはあるのですが、結構いけます。
そして何よりも腹いっぱいになったのです。

 「ラエコヤ広場」の脇には、もうひとつ訪れたいところがあります。
「市議会薬局 Revali Raeapteek OÜ」で、看板にヘビが描かれています。
ここは現役の薬局ではヨーロッパで最も古いもののひとつとされています。
主人を勤めたブヒャルト家 Burchartは、ロシアのピョートル大帝の死にも立ち会ったほどの人物です。
中世の奇怪な薬などが展示されています。

 その先の「ヴェネ通り Vene」からは「ロシア正教会 Püha Nikolai Imetegija kirik」が見えます。
クリーム色の壁と円形の塔が、綺麗です。
 その手前に建物をくり抜いたトンネル通路があるので、入ってみます。
トンネルを出くと、そこには「ドミニコ修道院 Dominiiklaste Mungaklooster」があります。
1229年にドミニコ修道会がタリンに修道院を開きますが、帯剣騎士団との戦いに敗れ修道院は破壊されてしまいます。
1246年には現在の場所に移り、エストニアでキリスト教の布教にあたります。

ところが免罪符の販売などに関わっていたために、市民からは支持されませんでした。
宗教改革の時は暴徒と化した市民に破壊され、またその後の火災で廃墟となります。
中世の石盤や墓石が残されています。

 そしてその通りの先は「カタリーナ通り Katariina Käik」に続いています。
旧市街で最も美しいと言われる通りです。
石畳の道には石造りの壁が立ち、通路の上にはアーチ型の柱が渡っている小路です。
中世の雰囲気を今でも残すところで、同じ道を修道僧も行き交っていたことでしょう。
訪れみたかっただけに、不意に現れたのには感動したのです。

 「カタリーナ通り」の突き当りには「ムーリヴァヘ通り Müürivahe」に交差します。
通りに沿って、東側の城壁が続きます。
13世紀に木造の城壁が建設されましたが、その後14~16世紀にかけて防御が強化されてきました。
かつての城壁は2.5kmにも及んだのですが、いまでも1.85kmが残っています。
壁の上部は回廊になっていて、上ることができます。
「開放」と日本語が出ていたので向かいましたが、扉は開いていたものの料金は取られるものでした。

 また城壁に面して、編み物屋台が店を出しています。
通称「セーターの壁」と呼ばれるこの場所で、寒さに耐えられず帽子や手袋を物色しそうになります。

 そうしているうちに「ヴィル門 Viru Väravad」までやって来ました。
旧市街の南東にあたる門です。
旧市街の塔や建物を背景に、中世を思わせる絵になっています。
門を潜ったところにマクドナルドがあるのですが、赤や黄色の店舗ではなく店自体が街並みに溶け込んでいるので、判らないのではないでしょうか。

 それでは「ヴィル門」からも見えた「聖ニコラス教会 Niguliste kirik ja muuseum」に向かいます。
この辺りは先ほど昼食の場所を探しに幾度となく通っているのですが、改めて東側から見ても大きな建物です。
1230年代に造られた教会ですが、いまは博物館として祭壇画や宗教芸術作品が展示されています。
美しくも不気味な絵画「死の舞踏 Danse Macabre」は、その中の最も有名な作品です。

 ここからは「トームペア Toompea」と呼ばれる石灰岩でできた高台に登ります。
この「トームペア」は権力者が住居を構えたところで、市議会がある下町を見下ろす場所にあります。
「キーク・イン・デ・キョク Kiek in de Kök」は、「トームペア」の南端を防御するために15世紀末に造られた塔です。
他とは違ったこの名称は、ドイツ語で「台所を覗け」という意味です。
ここから下町の台所が手に取るように覗き見えたということで、そう呼ばれています。
塔の下には地下道が掘られており、スウェーデン統治時代に造られたものです。
また隣には中世の売春婦の牢であった「ネイツィトルン Neitsiorn」もあります。

 ここでひときわ目立つ綺麗な建物が「アレクサンドル・ネフスキー大聖堂 Aleksander Nevski katedraal」です。
帝政ロシア時代の1901年に建てられたロシア正教教会です。
他とは違った丸みを帯びた屋根から、エストニアのものではないことが判ります。
ロシア支配の苦悩を払拭するためにエストニアが独立を果たした際には取り壊す計画もありましたが、それが実現することもなくこうして残っています。

 「アレクサンドル・ネフスキー大聖堂」の向かい側には、白とピンクの綺麗な建物があります。
この宮殿のような建物は、「トームペア城 Toompea loss」です。
元々エストニア人の砦があった場所に、13世紀に騎士団の城を築きました。
時の権力者が改修を重ね、エカテリーナ2世の時に、知事官邸として使うための補強が行われたのが今の姿です。
3つの塔がそびえており、南側の50mの高さを誇る塔は「のっぽのヘルマン Pikk Hermann」と「ふとっちょマルガリータ」と対照的に呼ばれています。
塔の上にはエストニアの3色旗が掲げられています。

 「トームペア」にはもうひとつ大きな建物があります。
それは高台の中央にある「聖母マリア教会 Toomkirik」です。
デンマークがエストニアを占領してすぐの1219年に建てられました。
エストニア最古の教会で、タリンの中心的存在になっています。
ここは教会の機能だけでなく、壁に掛けられた墓標や紋章にみられるとように墓所でもあります。
「トームペア」の主な貴族はここに葬られています。

 その他に高台である「トームペア」は、タリンの街を一望できる場所がいくつかあります。
その中でも1番眺めが良かったのは、北側に位置し東側を向いて街を眺める展望台です。
「コフトウッツァ展望台 Kohtuotsa Viewing Platform」といいます。
土産物屋の脇から見下ろすタリンは、オレンジの屋根が広がる絶景の場所です。
本日訪れてきたところを、一堂に見ることができます。
冷たい風が顔に打ち付ける中、下界の景色を楽しんだのでした。

 ここから「ピュク・ヤルク通り Pikk Jalg」から旧市街の街中に降りて行きます。
「トームペア」の境は、かつては城壁で区切られ通路は門でとじられていました。
細い通路を伝って降りて行きます。

 「修道女の塔 Tallinna linnamüür」から城壁を潜り、旧市街の外に出ます。
今になって思うことですが、そのすぐそばに鉄道の「タリン駅 Baltijaam」があったので寄ればよかったと後悔します。
ここからフェリーが発着するタリン港までは、トラムの線路沿いを歩いて行きます。
その間、何台かのトラムが通り過ぎていきます。
こうして中世の都市に酔いしれた1日は過ぎていきました。
再びフェリーでヘルシンキに戻り、日帰りの海外旅行を無事終えることができたのでした。

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