[旅の日記]
テレジーン Terezín 
やるせない重苦しい気持ちになって帰ってきたのは、テレジーンを訪れたときのことでした。
テレジーンはプラハから北へバスで1時間ほど行ったところの町です。
もともとは18世紀後半に、プロシアとの戦いの防衛上の要塞として造られました。
ところが実際には刑務所として使用され、中欧・東欧の民族紛争に加わった政治犯を収容していました。
第一次世界大戦にサラエヴォでフランツ・フェルディナント公を暗殺したプリンツィプもここにいました。
そしてナチスのチェコ占領の後は、あの恐るべき人種差別のために収容所に変貌したのでした。
最初に訪れたのは、小要塞です。
小要塞の入り口に続く道には、この要塞での犠牲者の墓が一面に広がります。
中央には十字架が、そしてその奥にはとりわけ収容者の多かったユダヤの人々の象徴の星の印が。
そして白ペンキをまだらに塗られた入り口を越えると、ここから先が現在の我々の生活からは考えられないような状況が繰り広げられます。
レンガ造りの建物は、独居房を初めとして集団の部屋でさえも、その当時の劣悪な生活環境が見て取ることができます。
部屋の三隅には4段の木のベッドがぎっしり敷き詰められ、入り口側には洗面台が並んでいます。
独居房にいたっては薄暗い狭い部屋に小さな木のベッドと便器があるだけです。
そして小要塞の奥には、見せしめのために行われたという処刑台があります。
ここだけがいやに広々として、皮肉にもまるで晴れ舞台を披露するかのような少し高くなったステージになっています。
小要塞内にはそのほかにも共同のシャワー室や洗濯場、医務室、重傷者の病室などが並んでおり、中に入ると薄暗い部屋とむっとした湿気を感じます。
ナチスは各地の収容所の囚人を定期的に囚人を移動させていました。
そしてここテレジーンは、ガス室などで知られる人生最終点であるポーランドのアウシュビッツの中継点だったのです。
とはいえ、この劣悪な環境の中で、アウシュビッツに行くまでもなくここテレジーンで命を落とす人が大半だったのです。
収容所のなかを仕切っている壁には、「働けば自由になる」というドイツ語の文字が掲げられています。
激しい憤りを感じながら、この文字をにらみつけてしまいました。
ドイツでもこのようなナチスの収容所の記録を色々と見てきましたが、過去の過ちとはいえやはり自国のこと、かなりかばった表現だったことがここに来て判ります。
とにかくここで目にしたものは、ナチスの政策の反逆者(とりわけユダヤ人と名が付けばすべて)に、捕らえては壁の中の刑務所に閉じ込め、食物もろくに与えられずに働くだけ働かされて、命耐えればそれまでといったような扱いです。
まったく人間としての扱いをされていないユダヤ政策が、わずか60~70年前に行われていたという事実を突きつけられたのでした。
なんともやるせない気持ちを抑えて、今度は小要塞から10分ほど北にある大要塞に向かいます。
堀で囲まれ高いレンガの壁の向こうに、今では一般のチェコの町となっている大要塞があります。
もともとはテレジーンの町の人も住んでいたのですが、戦争とともにナチスの反ユダヤ体制は激しさを増し、町の人を強制移住させて町全体が狂気の収容所と化していったのです。
町の中央にはゲットー資料館があり、当時の歴史と収容所での生活が展示されています。
囚人といっても悪行を行ったものだけではなく、ユダヤ人の場合はただユダヤ人というだけで子供も家族もろとも連れてこられます。
ただし子供たちには外の景色を眺めることが許されており、その子供たちが描いた昔の平和だった生活を思い起こした絵、もしくは暖かい生活への希望を託して描いた絵が飾られています。
どの子の絵にも緑いっぱいの庭で家族で遊ぶ姿、そしてきれいな家が描かれています。
小要塞でこの目で見てきた実際の生活を考えると、この空想にも近い絵を描き続けた子供たちが痛々しく思えます。
そのほかゲットー資料館では、映画も上映されています。
映画の冒頭には「○○年○月、1000人収容、生存者1名」「○○年○月、1000人収容、生存者なし」との記録の読み上げが果てしなく続きます。
そして生存者の数の少ないことには、改めて驚かされたのでした。
町の西側には、当時の様子を描いた画家たちの絵が飾られたギャラリーがあります。
どの絵にも狭い収容室のベッドで重なって寝る姿、食事をもらうために並び長い列、そしてやせ細って骨だけになった姿が描かれています。
そんな中にも、昼間の労働と食事が終わって就寝前の収容室のくつろいだ姿には、そんな中でもわずかの微笑を含んだ様子があります。
しかしどの作家も数多く描いて、全体に重い雰囲気が漂っているのが、収容所間の移動の絵です。
TRANSPORTと呼ばれており、各地の収容所からここテレジーンへ到着したときの疲れきった姿、それにも増してテレジーンからアウシュビッツに出発のために荷物をまとめて広場で待つ不安いっぱいの姿。
何のためにこんな目に合わなければならないのか、今の我々には到底理解しがたいものばかりでした。
あくまでも私見ではありますが、全国にある戦争資料館、とりわけナチスの資料館をいくつ集めたところで、このテレジーンの実態を一目見ることにかなうものはないでしょう。
旅の写真館(1)