[旅の日記]
台北 臺北 
中国との不仲がささやかれる台湾です。
日本からすれば、石垣島の少し先といった比較的近い存在です。
中国軍が攻めてくる前に、訪れてみます。
台湾の航空会社であるエバー航空で、台湾の首都 台北を目指します。
実は台湾行きはかねてからの願いで、旅行書を買ってから既に20年が経っています。
20年前の本を片手に、飛行機に乗り込みます。
機内食の飲み物も、当然のように台湾ビールを注文したのでした。
機内スクリーンで繰り広げられる映画を最後まで見ることなく、桃園国際空港に着きます。
飛行場のビルは、所々に台湾国旗が挙がっています。
日本とは違う異国の地に降り立ったことを実感する瞬間です。
空港では現地通貨への換金、スマホ用のローカルSIMカードの購入、交通系カードである悠遊カードの受取りと現金チャージなど、なかなか空港を離れることができません。
やっと下準備も終わり、まずは地下鉄MRTで台北の中心地である民権西路駅に入り、ホテルにチェックインします。
荷物を置いて身軽になったここからが、街散策の開始です。
最初に訪れたのは、世界貿易センター駅にある「台北101」です。
正式名称を「名称は台北国際金融センター」といい、その名の通り地上101階のビルで、完成した2004年当時は世界一の高さを誇っていました。
韓国のサムソンとともに工事に加わったのは日本の熊谷組、高速エレベータは東芝製と、日本の企業も多少なりとも加わっています。
外はどっぷり日が暮れ、展望室からは台湾市街の夜景を臨むことができます。

さて台湾に来た最初の夜ぐらいは、立派な台湾料理を食べてみます。
小籠包で有名な「鼎泰豊(ディンタイフォン)」に行ってみます。
店は日本にも進出していますが、上海店に幾度となく通った覚えがあります。
今回は通常で順番を待つよりも早く入れることのできる優先入場の食事券を予め購入していましたが、それでも1時間を待つことになりました。
席に着くと小籠包、蒸し餃子、焼売、炒飯、酸辣湯、野菜炒めなど、一通りのものが順に運ばれてきます。
噛めばいっぱいの肉汁が小籠包の皮の中から出てきて、それをレンゲに乗せてこぼさずに口に運びます。
待っただけの甲斐あって、台湾の味を美味しくいただいたのでした。
翌日は朝から台湾の食を味わいます。
外食の習慣のある台湾に馴染むために、朝から外に出ます。
中国語のメニューを見ながら注文したのは、鹹豆漿(シェントウチャン)です。
豆乳のスープで、そこに揚げパンが浸してあります。
これが思った以上においしいのです。
そしてそれに加えて注文したのが、蛋餅(タンピン)です。
これは小麦粉と玉子を焼いたもので、ピカタのような肉の蛋餅を頼んだのでした。
さてここからはMRTで圓山駅に向かいます。
駅から少し歩いたところで孔子廟の隣に、「大龍峒保安宮(ダーロンドン バオアンゴン)」があります。
医学の神様である保生大帝を祀った寺廟です。
建立は1742年で、疫病の流行に伴い中国福建省出身の人々が、故郷白礁にある慈濟宮から分霊してこの地に祀ったのがはじまりといわれています。
信心深い地元の人々が朝から訪れ、台湾独特の長い線香を手のひらで挟み祈っています。

ここからはバスで次の目的地である「忠烈祠」に向かいます。
中央政府所管の唯一の慰霊施設です。
国民革命、中華民国の建国、日中戦争などで犠牲となった先人の霊を祀るため、蒋介石が1969年に建設したものです。
荘厳な門で繰り広げられるのが、1時間ごとに行われる衛兵交代式です。
交代式では7名の衛兵が現れ、一糸乱れぬ行進を行います。
そのうちの2名が、それまで警護に当たっていた衛兵2名と交代するのです。
ここで交代した衛兵は、1時間の間人形のように身動きひとつせず、銃を構えて静止しています。
人並ならぬ体力と精神力が要求されます。
衛兵には陸海空軍から半年おきにおよそ20人前後が送られてくるということです。
その時に訪れる所が「国立故宮博物院」です。
中国国内の内戦により、蔣介石率いる国民政府が台湾に逃げ去る際に持ってきた宝物が展示されています。
一番の芽当ててあった「翠玉白菜」は訪れた時には展示がなく、その代わり「肉形石」が並んでしました。
いずれも清時代の名品です。
その他にも「雕象牙透花人物套球」が目を引きます。
細かい彫刻を施された象牙の球の中に、これまた手の込んだ象牙の球が入っており、それらが互いに回転できるのです。
どうやって掘ったのかを考えさせられるような根気のいるもので、究極の工芸品と言っても過言ではないでしょう。
バスで士林駅に戻ってきたのは、「国立故宮博物院」で1日を費やした後です。
MRTに乗ってホテルに戻り、この近くにもある夜市を見て回ります。
屋台で食事を買い、店の横に置かれたテーブルで食事をしています。
台湾の日常を垣間見ることができます。

ホテルの近くに美味しい店があるということなので、今晩はそこで食事とします。
日本で言うところの町中華で、人気の店なのですがお世辞でも綺麗な店ではありません。
しかし夕方ともなれば店の前には20人ほどの人だかりができています。
恐る恐る近づくとメニューが掛かれた伝票を渡され、そこに必要数を書いて料金を払います。
あとは呼ばれるのを待つだけです。

ほどなくして席が空いたのか、支払の時に渡された番号札が呼ばれます。
多くの待ち人はテイクアウトの食事待ちだったようで、思ったより早く順番が回ってきました。
店に入っていくと、今度はテーブル番号を伝えられます。
席に着くと、伝票で指示していたので比較的スムーズに料理が運ばれてきます。
甘辛く炊いた豚肉の汁が浸みた魯肉飯(ルーローハン)と、鶏肉をまぶしあっさりした丼の鶏肉絲飯です。
おかずには筍を煮た魯筍絲で、柔らかくて絶品です。
それに油豆腐と、どれも日本人の口に合うものばかりだったのでした。
翌朝も台湾流の外での外食です。
その前に朝のお勤めならぬ寺院をひとつ巡ります。
MRTで龍山寺駅まで行き、駅名にもなっている「龍山寺」に詣ります。
創建約270年の台北でも歴史のある寺院です。
建物の軒には、巧みで色とりどりの装飾が施されています。
願い事が叶うということなので、ここはお詣りしない手はないでしょう。
お詣りを終えたその瞬間、参列者全員のお経が始まりました。
そういえば、みながみな手に経典を広げていたその意味が判りました。
そこまで信心深くないので、次に進みます。
龍山寺駅から西門駅までの1駅分を、街を眺めながら歩いていきます。
この辺りとなれば立派な都会で、古いながらもビルが道の両側に並んでいます。
そこの隙間に商店や市場が広がっています。
もちろん道の脇にはポツンポツンと屋台が出て、朝食を作っています。
西門駅に着くと、交差点にはモニュメントが飾られています。
人々が地図をのぞき込み、何かを語っているようにも見えます。
近くには「西門紅楼(シーメンホウロウ)」もあります。
赤レンガで造られた建物です。
1908年に公営市場として八角堂である紅楼が完成し、ここ西門町は日本人の移住専門区になりました。
たいそう繁栄し、西町のランドタワーとしての役目を果たしました。
かつては映画館も入っていたのですが、現在は商店が並んでいます。
そして西門で行きたいところが、もうひとつあるのです。
それは麺線といった日本のにゅうめんを出す店です。
そういえば、今日は朝食を食べずに歩き回っていたのでした。
店内に席はなく、器に入った麺線を店の前に置かれたベンチに座って食べるのです。
ここも人気の店というだけあって、ひっきりなしに客がやってきます。
濃い目のカツオ出汁が効いたスープが麺に絡み、そこにホルモンがアクセントとして入っている美味しい料理です。
大小2種類の選択ができますが、聞いていた通り小器でも十分な量があったのでした。

遠くに大きな建物が見えます。
「中華民国総統府」です。
日本統治時代の1919年に完成した5階建ての建物です。
総統が執務する公邸で、第7代台湾総督から合計13人の総督がここで執務を行いました。
そして、現在も総統府として機能しています。
ここから台湾大学病院駅からMRTに乗ってホテルに戻ります。
駅の前には「二二八和平公園」が広がっています。
以前のこの場所は、台北天后宮(媽祖廟)があるだけの寂しいところでした。
そこを公園として日本の統治時代の1908年に開園し、台北新公園と名付けました。
第二次世界大戦で日本が敗れて中華民国にが台湾を接収した2年後の1947年にある事件が勃発します。
事の起こりは、台北市でタバコを販売していた台湾人女性に対し、役人が暴行を加えたのです。
日本統治時代は高い生活水準だった台湾も、その後の治安の悪化や役人の汚職で経済は混乱し、人々の不満も頂点まで達していた時期でした。
そこに日常化していた中華民国政府による民衆への弾圧や虐殺に対して、反発として爆発したのです。
「二・二八事件」と呼ばれ、園内の台湾放送協会本部(現在の台湾ラジオ放送局)が占拠されました。
一時は台湾住民が多くの地域で実権を掌握しましたが、結局は中国本土から援軍を派遣した中華民国国民政府によって武力で鎮圧されました。
まさにこの場所が発信地だったのです。
今では公園内に「国立台湾博物館」もあり、平和を望む公園に戻っています。
台北の町を数日掛けて観てきました。
近代的な街と歴史的建物が散在し、台湾の歴史を感じることができました。
そして何よりも言いたいのは、何を食べても美味しいことです。
多分日本人の舌に合っているのでしょう、退屈しない台北滞在だったのでした。
旅の写真館(1)